静かに、確かに。

日常の機微を綴ります。

2.28

 

前々回の記事は「優しい人」について書いたんですが、

 

改めて、人を想いやる気持ちって素敵だなあって思います。

 

 

先日参加した後輩たちの送別会、

 

異動前の職場の集まりに呼んでいただいて、

 

すごく暖かい気持ちになりました。

 

 

思い返すと、決して波風が立たない職場ではなかったです。

 

女性が多い職場で、以前記事にした「不安と承認」やら

 

「アサーティブコミュニケーションとはなんぞや」にも繋がる話ですが、

 

承認を得る機会の少ない彼女たちの不安は

 

作為的に、時に、攻撃的に牙を剥くもので

 

特に社員になったばかりの時は苦労を強いられました。

 

 

でもあの時の衝突を乗り越えた分、

 

彼女たちの信頼を大きく勝ち得た実感もあって

 

俺の異動の時に涙を流してくれたのも

 

今回の送別会の声掛けをしていただいたのも

 

他ならぬ彼女らで

 

「いつだって帰ってきて良いんだからね」とぶっきらぼうに言うその姿が

 

妙に心に刺さりました。

 

 

改めて、自分は家族を捨てたも同然の身なので

 

”帰る場所”とか”心の拠り所”とか、

 

そう言う居場所と呼べるような場所は残されていないと思っていたし、

 

それ故に一人でも強く生きられるようになろうと決意したのも

 

決して大袈裟なものではなく等身大の自分の覚悟だと今でも思います。

 

 

しかし、家族以上に自分の身の上を案じ、

 

家族でもないのに、手を広げて迎え入れてくれ、

 

ただの他人同士、たまたま巡り合わせで一緒の職場で働くことになった、

 

そんな彼女らに、

 

家族の代わりにはならないけれど、

 

言いようのない安堵感を抱いたことに自分でも驚いています。

 

 

 

前置きがとても長くなりましたが、

 

今回のテーマは

 

「人と人は分かり合えるのか」です。

 

 

そして個人的な見解として、答えは明確にNOです。

 

 

人は、究極的には分かり合えない、俺は今でもそう思っています。

 

 

分かりあいたいじゃないですか。

 

だって見えもしないお互いの頭の中の思考や概念を

 

わざわざ共通の言語を使って共有し合い

 

社会性を気付き上げている我々は、

 

間違いなく分かりあいたいと思っている。

 

 

逆に望んでいる限り、

 

分かり合うことは絶対にあり得ないとも俺は思っています。

 

 

例えば、世の中の夫婦が何故離婚するのか。

 

明確です。

 

分かり合えないからです。

 

 

お互いの育ってきた環境や背景が違えば、

 

価値観なんて十人十色ばらけるに決まってます。

 

なんなら言えないことのひとつやふたつある人が大概でしょう。

 

人は心の中で中間以上でありたいと常に思い込んでいるプライドの高い生き物だから尚更。

 

 

それをなんとか歩み寄ろうとお互い努力してきたのが、

 

時間の流れの中で変化し、

 

夫婦なんだから言葉にしなくとも分かってくれるでしょうと言う怠惰が

 

分かり合えない価値観の違いを浮き彫りにし、

 

価値観の相違なんて自然の摂理を

 

あたかも新発見のように語って振りかざして言い訳にし

 

気がついたら破局している。

 

 

そもそも性別が違うんじゃ、価値観の相違なんてあって然るべきじゃないか。

 

例が悪かったかな。笑

 

 

いずれにせよ、大体がこれに当てはまるんじゃないですかね。

 

 

今度、友人や恋人と試してみると良い、

 

言語を使わずに会話をしてみる。

 

きっともどかしく歯痒いでしょう。

 

思っている事がなかなか伝わらないんです。

 

 

言葉という便利な道具があっても、道具は道具であって万能ではない。

 

言葉の表現にも限界はあります。

 

 

脳みそごと入れ替えない限りは人は分かり合えないでしょう。

 

いや入れ替えたところできっと分かり合えないでしょう。

 

 

究極的に突き詰めれば人は自分以外とは分かり合えない。

 

孤独な生き物なんだと突きつけられます。

 

 

なんなら自分自身すら分かり得ないかもしれません。

 

 

だから僕らは必死になって分かろうとするんです。

 

好きな食べ物は?

どんな服を着るんだろう?

兄弟はいるのかな?

休日はどう過ごすだろう?

自分のことをどう思ってるのかな?

 

なんだか、人を知ろうとする気持ちってすごく健気ですよね。

 

 勿論分かり合えないからと言って何もしないよりは遥かにマシです。

 

 

ちょっとこの話嫌になってきましたかね。

 

だとしたら、申し訳ない。

 

ここで少し、思考の転換をしましょうか。

 

 

分かり合えなくて良いんです。

 

分かり合えないことを嘆くのではなく、

 

分かり合えないながらに分かり合おうとする努力が大事なんです。

 

 

 

例えば俺は、いまだに女性の生理痛の苦痛を知り得ないし、

 

眼科で検査をしながらも老眼の生活苦なんて想像の範疇を超えないし、

 

小説や音楽を聴いても、作家の本心までは見えてこないし、

 

当時自分が学生だった頃の学校の先生が血のにじむ努力をして

 

試験の準備やら生徒会やら部活動やらに精を出していたことを知らなかった。

 

 

でも、苦痛を慮ったり、傾聴から解決策を見出したり、作家性に想いを馳せたり、

 

当時を振り返って労いの気持ちを持つこともできます。

 

 

そこまできてようやく、人は人を想いやれるようになるんです。

 

分かり合えないからこそ、分かり合おうとし、

 

そこに思いやりが生まれて、はじめて「優しい人」になり得るんです。

 

 

もう一度言います。

 

 

人は、決して、究極的には分かり合えません。

 

それにもどかしさと歯痒さと孤独を感じます。

 

でも分かり合えなくて良いんです。

 

分かり合えないからこそ、分かり合おうとする。

 

それによって想いやる事ができる、優しい人になれるんです。

 

 

 

以上です。長々と書きました。

 

 

正直これは戒めでもあって、

 

直近の失恋において、俺に足りなかったのがまさにこの思考です。

 

 

分かり合えない、で思考停止していました。

 

それを本当に悔やんでいます。

 

分かり合えないからこそ、分かろうと努力する。

 

 

 

今年の目標のひとつ「利他行動」はそんな後悔を晴らすために決めました。

 

 

さて今年度も、残すところもうあと1ヶ月。

 

今年もひとつ季節が終わろうしています。

 

 

俺はどこまで成長できるのか。

 

 

雪解け水に蕗の薹が芽生えるように。

 

桜の梢に蕾が芽吹くように。

 

 

今年の春は、もう直ぐそこです。