静かに、確かに。

日常の機微を綴ります。

4.26

 

4月下旬です。

 

Twitter上では元気そうですが、実際のところは全部空元気な今日この頃です。

 

 

桜はとっくに散ってしまって、

 

一方で思いは募るばかりで、

 

かと言って、行動を起こすのは誰の為にもならない。

 

 

最近は考え事をして上の空になることが多いです。

 

せめて料理をしたり、ゲームをしたり、本を読んだりして気を紛らわすけれど、

 

すぐに思考は彼方へ飛んでいってしまいます。

 

 

なんだろうな、必死こいて踠いて生きていた大学時代の方が

 

よっぽど生き生きしていたようにすら感じます。

 

 

 

 

今日、テーマとして扱いたいのはそんな

 

「考え過ぎるという頭の悪さ」

 

という思考の取捨選択にまつわる話です。

 

 

 

「考え過ぎだよ」

 

 

この言葉に耳を塞ぎたくなる人、いるんじゃないでしょうか。

 

俺はそんな中の一人です。

 

 

今も言う程改善されていませんが、

 

当時でこそ家庭環境や経済的な問題をはじめとして、

 

大学生活と仕事との釣り合いの取れなさ、

 

睡眠時間の不足、動かなくなっていく身体、鬱病

 

 

そんなものに振り回されていた当時の自分は間違いなく

 

"考え過ぎる人"でした。

 

最初は思考するより先に行動をして、考えは後からついてきたものですが、

 

「何故、こんなことをしているのだろう」

「もっとこうしたら器用に生きられるんじゃないか」

「なんで俺は生きているんだろう」

 

と行動を阻害するような思考に阻まれて身動きがどんどん取れなくなって行きました。

 

 

思い返せば、当時熱心に取り組んでいたNPOの活動もそうですね。

 

LGBTをはじめとして、女性や障がい者、国籍。

 

いろんな人のダイバーシティに寄り添う活動であった為に、

 

「この発言は誰かを傷つけていないか」

「この行動は本当にその人の為になるのか」

「一方を持ち上げて、一方を下げるような事にならないか」

 

本当に些細な枝葉末節の細部にまで意識を尖らせて生活していた時期があります。

 

"考え過ぎ"て自らに枷をつけるような生活を送ってしまっていたんですね。

 

 

勿論、当時の経験は一生の宝ですし、

 

俺に多くの知見や思考を教えてくれた人生の大きなターニングポイントのひとつで

 

あったことには間違いありません。

 

 

 

開かれた環境といえば聞こえはいいですが、

 

自分の価値観と相手の価値観を常にすり合わせ続ける生活に

 

情けないながら、疲弊していたのは正直なところです。

 

 

もちろん、人は変化し続け、思考し続けなければ、成長はできないものですが

 

実はその思考のし過ぎが自分の行動を阻害することもあるんです。

 

 

そして行動だけでなく、姿勢まで制限されることがあります。

 

謙虚で慎ましい友人がいるが、過剰なまでに「自分なんて〜」と言い続けてしまったが為に

 

本人はそんなつもりがなくても「卑屈だ」と思われてしまった例を見たことがあります。

 

 

大抵の場合、思考は大事ですが、実は取捨選択が必要です。

 

思考をし過ぎる、と言うのはあまりいい結果を生み出さない事がほとんどだと思います。

 

 

人の脳みそはよく出来たもので、

 

古い文献だと、人間の脳の処理速度はスーパーコンピュータに劣らないほど優れている、

 

とされています。

 

「信憑性は〜」とか「どの条件下で〜」とかそう言うことはひとまず置いておいて、

 

大事なのは人の脳はたった一秒間に相当量の思考ができるんです。

 

 

逆に考えると、一瞬でとてつもない処理をする脳みそで

 

どんなに時間をかけて思考しても、最初に解決しなかった思考は

 

大抵時間をかけて思考し続けても解決はしない事がほとんどです。

 

 

解決したとしたら、途中で別の思考を取り入れたり、一晩寝かせたり、

 

元々していた「思考を一旦止めて」「別のことに思考を使う」ことをしているはずです。

 

 

少し話はズレますが、大抵の人はリアルタイム的なマルチタスク処理なんて実際できません。

 

どんなにマルチタスクができるように見える人でも

 

思考を素早くシフトさせまくっているに過ぎないんです。

 

 

ここまでくると、なんとなく言いたい事が見えてくるはずです。

 

解決しない事を思考し続ける事がどれだけ無駄で

 

「解決しないことを思考し続ける」事が、実は脳が怠惰を働いている証拠であり、

 

そしてそれは脳が休息を訴えている瞬間でもあるんです。

 

思考し過ぎるときは、もう寝ましょう。

 

 

一番たちが悪いのは、解決しない思考に酔い浸っている人ですね。

 

脳の怠惰にすっぽり丸め込まれてもはや奴隷です。

 

はっきり言って救いようがないです、自己中心で周りが見えないんだもの。

 

解決しないとわかっていて思考してるように見せてなんも考えていないのが丸見えです。

 

つまり今の俺ですね。

 

 

脳みそとは、自己中心的なものです。

 

それを如何にコントロールできるかが理性とかであり、本来の思考が持つべき役割です。

 

 

つまり、俺が現状の自分を振り返って辟易するのは

 

それがわかっていて、思考に入り浸ってしまう自身の愚かさ、

 

そしてそれさえも記事にしてしまう自身の貪欲さに他なりません。

 

 

 

 

そう考えてみると、大学時代に死にそうな顔をしながらも

 

"考え過ぎ"に背中を追われても

 

がむしゃらに色んなことに挑戦していた点は今より随分利口でした。

 

 

逆に今の自分の思考から脱却しようと中途半端に行動を急くのは

 

なんだかバカらしく感じられるし、

 

この記事自体も本当にバカらしいし、

 

あーもーやってらんねえなって匙を投げる夜です。

 

 

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と、ここまで思考し過ぎることは精神衛生上よくない事みたいに扱ってきたわけですが、

 

絵とか歌とか、芸術も本質はそう「思考」の延長だと思うんです。

 

そういう「無駄」とか「自己中心」とか

 

「脳の思考」で得られなかった答えを芸術に託して昇華している、

 

そんなアーティストが俺は好きだったりします。

 

 

彼らがアーティストと呼ばれる所以はそこなんじゃないかな。

 

俺の描く絵や作る音楽が彼らと違うのはそこの覚悟の差なんだろうと、改めて思いました。

 

 

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何が言いたいか分かりにくい記事でした。

 

思考のし過ぎがもたらす結果と対処、ただそれも悪いってだけじゃねえよな、ってお話。

 

なんか頭の中のゴチャゴチャを吐き出してたら少し頭の中が軽くなった気がするわ。

 

インプットとアウトプット。

 

煮詰まったら一旦思考を止めて行動に移す、大事かもなあ、覚えておこう。